🐰し)まだ引っ張るよなぁ。。。これ、俺のブログだし、俺行ってないし。。。
お母)ごめんごめん(^-^; 今日で終わりだよ。一昨日からの続き、2月5日群馬県富岡市への参拝ツアー、パート3。お母ちゃん目線の富岡製糸場訪問記です。
雪がちらつくこの日の富岡市内。富岡製糸場の敷地に入ると、予想以上に大きい所でした。広い敷地には、製糸場としての工場の他、主に働いていた操糸場、繭置所、大勢の工女たちの寄宿舎や指導に招いたフランス人の住居、診療所、発電所や諸々の施設があります。この広さでこの寒さ…。ちょっと気が滅入りそうでしたが、中の展示では明治期からの製糸場の歴史を改めて学ぶことができました
富岡製糸場。今回初めて訪ねました。ですが、現地で見学している間、ふと思い出しました。富岡製糸場って、『あぁ野麦峠』のモデルになった場所だったっけ?と思い出し、いや、違ったっけ?どうだったっけ?…とずっとモヤモヤしていました。
答え:✘ 違いました。
(『あぁ…』の方は、長野県諏訪、岡谷地方への工女の話。富岡製糸場の方は『赤い襷(あかいたすき)』という映画になっています。)
ここからは社会の勉強をもう一度やり直す…いや、真面目に勉強するつもりで頑張ります!!^-^;)
富岡製糸場は、明治維新を迎え、殖産興業政策(富国強兵、鉱工業、農牧業、鉄道、貿易、それらの技術者の育成、その他政府の指導下に資本制生産の体系を作り出そうとした政策)を掲げた政府が推進した生糸の品質改良と大量生産を可能とする器械製糸工場の導入と推進、という政府が進めた政策に乗って出来た国内最大の製糸場でした。お母ちゃんがここで注目したこと…当時としては、各地から集められた工女の労働は先進的で、朝7時から午後4時半まで。途中3回の休憩時間があり、7時間45分の現代の労働時間と大差ないくらい健全な労働条件だった、ということでした。そして、繭から生糸になるまでの工程は繊細かつ熟練の技を要する作業で、そのために募集された15~25歳の若い女性達は、技術の習得度合いによって等級が設けられ、一等工女、二等、三等、等外工女とランク付けされ賃金にも反映されたそうです。
社会の授業で習ったとおり、養蚕業は昔の産業の一つで、各地で養蚕は行われていましたが、富岡に大規模な製糸場が建設されたのは、
●養蚕が盛んで原料繭が確保できる。
●工場建設用の広い土地が用意できる。
●外国人指導の工場建設に住民が同意した。
●既存の用水を使うことで製糸に必要な水の確保ができる。
●燃料の石炭が近くの高崎で採れた。
という条件が揃った地であったことでした。
この官営工場を操業するために雇われたフランス人指導者のポール・ブリュナという人物や、一緒に来た製糸工、工女、家族が住む住居はかなり広い建物でした。ブリュナには、月給600円に加え賄い金が毎年1800円、合計9,000円の年俸が支払われていたそうです。ちなみに一等工女の月給が1円75銭だったそうです。
西繭置場。ここは2階建ての繭の貯蔵庫として使用された所だそうで、横長の広い建物です(104.4m)。1階部分は、蒸気機関の燃料用の石炭を置く場所や繭をより分ける場所としても使われていました。
帰りにお土産として買った本物の繭2コを使い、うさぎさんを作りました。ちなみに、繭を切ると、中には蛹が…(;^ω^) 繭って結構固くて、カッターで切っても崩れにくく、丁度今みんな使ってる不織布マスクの様な感じの繊維が見えます。
うさタロ明日へのオラクル🐇 明日もいい一日になりますように🌙
小アルカナ棒のクイーン(逆位置)…負けず嫌いで我がままな性格が出て、嫉妬心や競争心をむき出しにしたり、周囲を困惑させたりすると暗示が出ています。~~すると、自分は~~になる、とシミュレーションしてみると自分の行動パターンが周りにどう及ぼすか想像できますね。
~今日も読んで頂きありがとうございました。明日もいい日でありますように✨
ポチっとしていただけるとうれしいです。
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